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エルコンドルパサー
通算成績11戦8勝
獲得賞金4億5,300万円
生年月日 1995.03.17(平成7年)毛色 黒鹿毛性 牡
全成績
主要戦績(抜粋)・新しい順| 年月日 | 着順 | レース | コース | 人気 | 騎手 | タイム | 上り3F | 映像 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 2 | GI凱旋門賞 | フランス 芝2400 | 蛯名正義 | — | — | |||
| 1 | GIIフォワ賞 | フランス 芝2400 | 蛯名正義 | 2:31.4 | — | — | ||
| 1 | GIサンクルー大賞 | フランス 芝2400 | 蛯名正義 | 2:28.8 | — | — | ||
| 2 | GIイスパーン賞 | フランス 芝1850 | 蛯名正義 | — | — | |||
| 1 | GIジャパンカップ | 東京 芝2400 | 3人気 | 蛯名正義 | 2:25.9 | 上り35.0 | 映像 | |
| 2 | GII毎日王冠 | 東京 芝1800 | 3人気 | 蛯名正義 | 1:45.3 | 上り35.0 | — | |
| 1 | GINHKマイルカップ | 東京 芝1600 | 1人気 | 的場均 | 1:33.7 | 上り34.9 | 映像 | |
| 1 | GIINZT4歳S | 東京 芝1400 | 1人気 | 的場均 | 1:22.2 | 上り35.8 | — | |
| 1 | 共同通信杯4歳S | 東京 ダ1600 | 1人気 | 的場均 | 1:36.9 | 上り35.6 | — | |
| 1 | 4歳500万下 | 中山 ダ1800 | 1人気 | 的場均 | 1:52.3 | 上り37.5 | — | |
| 1 | 3歳新馬 | 東京 ダ1600 | 1人気 | 的場均 | 1:39.3 | 上り37.2 | — |
血統
金色の名は 名馬ジャーニー に掲載 — その馬のページへ| 父Kingmambo | Mr. Prospector | Raise a Native |
| Gold Digger | ||
| Miesque | Nureyev | |
| Pasadoble | ||
| 母サドラーズギャルSaddlers Gal | Sadler's Wells | Northern Dancer |
| Fairy Bridge | ||
| Glenveagh | Seattle Slew | |
| Lisadell |
旅程 — この馬の物語
1995年生まれの黒鹿毛の牡馬。父Kingmambo、母サドラーズギャル。主な勝ち鞍はNHKマイルC・ジャパンC・サンクルー大賞。
一九九二年、一枚のせり名簿
1992年、イギリスのタタソールズのせり名簿に、サドラーズギャルという牝馬が載っていた。父はサドラーズウェルズ、母の父はシアトルスルー。血を遡れば、ソングという一頭の牝馬に行き着く。ヌレイエフもサドラーズウェルズも、この牝系から出ていた。 その名簿を読んでいたのが渡邊隆である。父・喜八郎から二代続く馬主で、日頃から外国の血統書とせり名簿に目を通す人だった。憧れていたのがまさにその牝系で、しかもこの牝馬は自分の血統表の中にソングを二度持っている。ところが当のサドラーズギャルは体調を崩してせりを欠場し、アイルランドの牧場へ戻されてしまった。渡邊は諦めなかった。エージェントを介して牧場と交渉し、改めて買い取った。 繁殖牝馬は、アメリカ・ケンタッキーのレーンズエンドファームに預けられた。その牧場はキングマンボの生産者でもある。母がミエスクであることに惹かれた渡邊は、手持ちの別の種牡馬株とキングマンボの株を交換し、この配合を組んだ。理由ははっきりしていた。ヨーロッパで種牡馬にしたかったからである。走り出す前から、この馬が最後に立つ場所は決められていた。 1995年3月17日、ケンタッキーで黒鹿毛の牡馬が生まれる。生後4か月のころ、せり市のためにケンタッキーを訪れた調教師・二ノ宮敬宇が検分した。感想は「ごろっとした四角い馬」。渡邊への報告は、普通の馬、というものだった。 名前のほうは先に決まっていたようなものだった。渡邊が慶應の体育会ソッカー部にいたころ、中学2年までペルーで暮らした先輩がいて、その人を尊敬していた。父の名にある「マンボ」を南米の音楽と読み替え、ペルー民謡の題を当てる。エルコンドルパサー。渡邊がこの名を使うのは二度目である。一頭目はデビュー前に骨折し、走らないまま逝っていた。
的場均の五勝
1997年11月8日、東京のダート1600メートル。デビュー戦に芝を使わなかったのは、まだ身体ができておらずスピード勝負は早い、という二ノ宮の判断だった。ゲートからの発走練習が足りず、1番人気のその馬は出遅れて最後方を進む。直線に入って的場均が追い出すと、先行勢をまとめてかわして先頭に立ち、そのまま7馬身の差をつけた。上がり3ハロン——最後の600メートル——のタイムは37秒2。ほかの馬はほとんどが40秒以上かかっていた。的場は後に、この脚を「『シャーン』と金属音が聞こえてくるかのような、凄い切れ味だった」[^1]と書いている。二ノ宮がこの馬を強いかもしれないと思ったのも、この日が最初だった。渡邊にいたっては、4コーナーで最後方にいる自分の馬を見て帰り支度を始めていた。 翌1998年1月、中山のダート1800メートル。また出遅れ、3コーナーから動いて直線は独走になった。今度は9馬身つけている。 この馬はアメリカ生まれの外国産馬である。当時、外国産馬に皐月賞やダービーの出走権はなく、天皇賞にも出られなかった。春の目標は自然に決まる。外国産馬に開かれた春のマイル王決定戦、NHKマイルカップだった。 2月の共同通信杯4歳ステークスは、初めて芝を試す場になるはずだった。ところが降雪でダート施行に変更される。単勝1.2倍、5番手から抜け出して2馬身。二ノ宮厩舎にとっては開業10年目の重賞初勝利だったが、コース変更に伴ってGⅢの格付けは取り消された。 この間、的場は一度この鞍から降りることになっていた。同期に、朝日杯3歳ステークスを勝ったグラスワンダーがいる。そちらも的場の手が合っていて、いずれ両馬がぶつかるのは目に見えていた。二ノ宮から交代を告げられた的場は、この馬はまだ気持ちが子どもで他人に委ねるには不安が残る、ともう一戦だけ猶予を願い出た。3月、グラスワンダーが右後脚を骨折して春が消える。結局、的場は鞍上に残った。 4月のニュージーランドトロフィー4歳ステークスが初めての芝で、しかも重馬場だった。初めて踏む芝に戸惑いを見せ、スタートも遅れたが、すぐに好位へ取りつき、最終コーナーで外へ出して2馬身。 5月17日、NHKマイルカップ。無敗の馬が四頭も揃った一戦で、初めてまともなスタートを切り、3、4番手を進んだ。最終コーナーで外へ膨れながら、直線で先頭に立つ。1馬身3/4差。二ノ宮にとっては初めてのGⅠだった。渡邊はこの日、繁殖牝馬を自分で探して配合から取り組んだ結果が形になったことが何より嬉しい、と話している。
出典:的場均『夢無限』流星社、2001年、177-182頁(ja.wikipedia.org/wiki/エルコンドルパサー 経由で確認)、https://ja.wikipedia.org/wiki/エルコンドルパサー 、閲覧日:2026年8月3日。
毎日王冠
秋、的場はついに選ばなければならなくなった。骨折から復帰するグラスワンダーの毎日王冠に、エルコンドルパサーも出走する。グラスワンダーを管理する尾形充弘は、自分で決めてくれと的場に委ねた。三週間ほど悩んだ末、的場はグラスワンダーを選んだ。 空いた鞍を埋める作業は難航した。翌年の遠征を見据えてフランスのオリビエ・ペリエに声をかけたが、一日だけの短期免許は認められないとJRAに断られる。次に武豊へ打診すると、サイレンススズカで同じレースに乗ると返ってきた。最後に決まったのが、当時関東のリーディングを走っていた蛯名正義である。蛯名はその夏、渡邊のもう一頭オフサイドトラップで七夕賞と新潟記念を連勝していた。渡邊の父・喜八郎が最初の所有馬を預けた調教師・蛯名武五郎の遠縁でもあり、なんとなく縁を感じた、というのが本人の言だった。 10月11日、GⅡ一鞍のこの日、13万人を超える観衆が東京競馬場に詰めかけた。サイレンススズカが1000メートルを57秒7で飛ばし、エルコンドルパサーは2番手の集団でそれを追う。3コーナーからグラスワンダーが動いて直線入口で先頭に並びかけたが、そこから伸びを欠いた。逃げ足の衰えないスズカに、エルコンドルパサーは2馬身半届かない。ただし3着との差は5馬身開いていた。 二ノ宮は後年、あの日スズカを追いかけていたらどうだったか、と考えることがあると語っている。同時に、そこで失速していればジャパンカップ挑戦は諦めていただろう、とも。負けたレースが次を決めた。 三週間後、サイレンススズカは天皇賞(秋)で骨折し、還らなかった。外国産馬のエルコンドルパサーに、その天皇賞の出走権はない。勝ったのは、渡邊のオフサイドトラップだった。
府中の二四〇〇メートル
秋の目標は、当初マイルチャンピオンシップに置かれていた。それをジャパンカップへ変えたのは渡邊である。母の父サドラーズウェルズにキングマンボという配合は、マイルより2000から2400メートルに向く、というのが持論だった。加えて、日本ダービーを勝ったスペシャルウィーク、安田記念とジャック・ル・マロワ賞を勝ったタイキシャトルと年度代表馬を争うには、ここを勝つしかないとも踏んでいた。私的な理由もあった。父・喜八郎の所有馬ホスピタリテイは、1982年のジャパンカップを前に故障して出走できていない。 11月29日。サイレントハンターが単騎で逃げ、エルコンドルパサーはスペシャルウィーク、エアグルーヴと横に並ぶようにして3番手の集団を進んだ。最終コーナー、二頭が仕掛けを待つのを尻目に、いち早く先頭へ並びかける。直線で抜け出すと、そこからさらに差を広げた。2着エアグルーヴに2馬身半。ダービー馬は3着に置かれた。2分25秒9。距離が持つかどうかを議論されていた馬が、その距離のいちばん大きなレースを正攻法で勝った。 年末のグランプリには向かわなかった。本当のオープン馬は数を使わないものだ、それを決めるのも馬主の見識だ、と渡邊は言っている。JRA賞では、皐月賞と菊花賞を勝ったセイウンスカイを抑えて世代の最優秀馬に選ばれた。だが狙っていた年度代表馬は、208票中174票を集めたタイキシャトルのものになる。エルコンドルパサーは11票だった。
シャンティイ
1999年1月25日、JRA賞の授賞式。壇上に立った渡邊は、この馬をヨーロッパへ送ると発表した。「凱旋門賞はポンといって勝てるようなレースではありません」[^1]。狙いを定めた一戦にだけ出かけて帰ってくる、それまでの日本馬の遠征とは違う形にする——腰を据える、というのがその意味だった。 渡邊と二ノ宮に、欧米の競馬に通じた桜井盛夫、合田直弘、奥野庸介が加わって行き先を議論した。イギリスのキングジョージ、アメリカのブリーダーズカップ、ドバイワールドカップも候補には挙がっている。決まったのはフランスだった。 4月14日、帯同馬ハッピーウッドマンとともに出発。翌日、シャンティイのトニー・クラウト厩舎に入る。クラウトは前年のジャック・ル・マロワ賞を勝ったタイキシャトルを預かった調教師だが、渡邊との縁のほうが古い。1991年に来日した折に知人を介して紹介され、1998年の再来日のときには、強くなって遠征する際にはよろしく、と頼まれていた。 現地の芝は日本よりはるかに丈が長かった。1ハロン15秒という軽い調教でも疲れた様子を見せ、雨で馬場が緩めばフォームは崩れた。それが数か月かけて、その馬場に合う走り方へ変わっていく。筋肉のつき方も変わった。ケンタッキーの牧場で四角い馬と見られた馬体は、胴の長い細身のそれに作り替えられていった。 5月23日、ロンシャンのイスパーン賞。地元馬を抑えて1番人気に支持され、中団から最終コーナーで3番手に上がり、直線で先頭に立つ。ゴール前、外からクロコルージュに差されて4分の3馬身差の2着だった。 渡仏した時点で、厩舎スタッフはいつまでフランスにいられるのかを話し合っていたという。初戦で惨敗したら帰るのだろう、と。負けたのに、帰らなかった。調教助手の佐々木幸二は、それまで買い控えていた日用品をこの日を境に一気に買い込んでいる。 6月2日、この馬が年内で引退し、18億円のシンジケートを組んで社台スタリオンステーションに繋養されることが明らかになった。残る出走は数えるほどだという事実が、遠征のまだ半ばで先に置かれた。
出典:平松さとし『凱旋門賞に挑んだ日本の名馬たち―誰も書かなかった名勝負の舞台裏』KADOKAWA、2014年、19-21頁(ja.wikipedia.org/wiki/エルコンドルパサー 経由で確認)、https://ja.wikipedia.org/wiki/エルコンドルパサー 、閲覧日:2026年8月3日。
六十一キロ
7月4日、サンクルー大賞。起伏の多いコース、ジャパンカップと同じ2400メートル、そして日本ではまず背負うことのない61キロ。相手は前年の凱旋門賞馬サガミックス、フランスダービーとアイリッシュダービーを勝った全欧年度代表馬ドリームウェル、ドイツの年度代表馬タイガーヒル、ドイツダービー馬でブリーダーズカップ・ターフ2着のボルジア。近年でも最高の顔ぶれと言われた。 スタミナへの不安は陣営にも鞍上にもあった。この馬なら2400メートルでも問題ないと言い切ったのはクラウトである。レースは3、4番手から。直線の半ばでタイガーヒルを楽にかわし、2馬身半差をつけた。フランスでの初勝利だった。 レースのあと、蛯名は涙を見せ、どうしてもっと馬を信用してやれなかったのか、と自分を責めるように口にしている。二ノ宮が後にフランスの四戦で一番緊張したと振り返るのもこのレースで、ここで結果を出さなければ残っている意味がなくなる、という一戦だった。 代償もあった。競走中に負った二つの傷口から菌が入り、右後脚が腫れる。フレグモーネである。軽症と発表されたが治りは遅く、完治までに1か月かかった。7月下旬に予定していた本格的な調教の再開は、8月にずれ込む。 前哨戦の選定では意見が割れた。二ノ宮は1600メートルのムーラン・ド・ロンシャン賞を考えていたが、渡邊らが常道とはいえないと反対し、本番と同じ舞台のフォワ賞になった。 9月12日、そのフォワ賞はわずか3頭立てだった。イスパーン賞で敗れたクロコルージュ、サンクルーで負かしたボルジア、そしてこの馬。先頭に立ち、ロンシャン特有のフォルス・ストレート——本物の直線の手前に現れる偽の直線——を抜け、最終コーナーでいったんボルジアに前へ出られる。直線で差し返し、アタマ差で凌いだ。 この日、ロンシャンには野平祐二がいた。1969年にスピードシンボリで凱旋門賞に挑んだ人である。日本の馬がついに人気馬として凱旋門賞に出る、それが嬉しくて駆けつけた——そう言われて、渡邊は目頭が熱くなったという。三十年を挟んで、同じ競馬場だった。
十月三日、ロンシャン
その秋のパリは雨が続いていた。前日から当日の朝までに降った雨で、ロンシャンの芝は1972年以降でもっとも軟らかいと計測された。並んだ14頭のうち、8頭がGⅠ馬だった。 エルコンドルパサーの枠は最内である。ゲートが開くと、飛び出すように先頭に立った。モンジューの陣営が用意していたペースメーカーが、戦前の見立てに反して逃げなかったからだ。譲る理由はなかった。前走も先頭で運んだ馬だ、この馬のペースを守って、喧嘩をせずに流れに乗る。蛯名はそう決めていた。 後ろで、モンジューは6番手あたりにいる。馬場の悪化を嫌って当日まで出否を決めかねていたデイラミは、中団の後ろまで下げていた。 直線に入る。後続との差は2馬身ほどあり、そこからさらに開いていった。 残り400メートル。外にモンジューが持ち出される。距離が詰まる。残り100メートルで、並ばれた。 一度は前に出られている。そこからエルコンドルパサーは差し返しにいった。最後の100メートルは、二頭だけのレースになった。届かなかった差は半馬身。3着のクロコルージュは、そこから6馬身も後ろにいる。 翌日の現地の紙面は、チャンピオンが2頭いた、と書いた。モンジューを管理したジョン・ハモンドは後年、あれだけモンジューに条件の揃った日で、勝ち馬が2頭いたも同然の結果だった、と振り返っている。硬い馬場だったら敵わなかったと思う、とも。
余力
10月11日、日本へ帰ってきた。空港には「おめでとう 世界のSTAYER エルコンドルパサー」という垂れ幕が掛けられていた。JRAからも、繋養先となる社台スタリオンステーションからも、現役を続けてジャパンカップに出てほしいという要望が届く。渡邊は固辞した。余力を持って牧場に送り返すのも馬主の役割だ、というのがその理由である。11月28日、ジャパンカップ当日の昼休みに東京競馬場で引退式が行われた。凱旋門賞のゼッケンをつけてパドックを周回し、本馬場では蛯名を背に第4コーナーからゴールまで駆けた。その日のジャパンカップには、モンジューもタイガーヒルもボルジアも来ている。挨拶に立った渡邊は言った。「今日で終わらせた馬主の決断をファンの皆様にもおわかりいただける日がくると確信しております」[^1] その日は、渡邊自身が思ってもいない形で来ることになる。2000年から種牡馬になり、初年度から百三十頭を超える繁殖牝馬を集めた。三年目の種付けを終えた2002年7月16日、腸捻転で死ぬ。7歳だった。8月8日のお別れ会には渡邊、二ノ宮、蛯名、的場が並び、一般のファンおよそ300人が参列している。母サドラーズギャルはその後もエーピーインディやサンデーサイレンスと配され、半弟のナイスベンゲルら数頭が二ノ宮の厩舎に入ったが、あの配合が繰り返されることはなかった。ヨーロッパで種牡馬にするために組まれた設計図は、最後の一行を書かれないまま閉じられる。それでも遺された三世代から、ヴァーミリアン、ソングオブウインド、アロンダイトが出た。牧場で過ごした時間が三年に満たなかった馬が、GⅠ馬を三頭遺したのである。 あの半馬身から、日本の競馬は毎年10月にロンシャンを見上げるようになった。2010年には、二ノ宮が蛯名と佐々木、そしてクラウトという同じ顔ぶれでナカヤマフェスタを連れて行き、頭差の2着まで迫っている。扉はまだ開かない。それでも、開くとしたらここだと日本人に思わせたのは、あの一頭だった。渡邊が最後に守ったのは、勝ち星でも記録でもなく、走り終えた馬に残されるはずの時間のほうだった。その時間は、本人が思っていたよりずっと短かった。追う相手もないまま府中の直線を駆け抜けた11月のあの一走が、日本の競馬場に残された最後の姿になっている。
出典:『週刊100名馬 Vol.83 エルコンドルパサー』産業経済新聞社、2000年、24-33頁(ja.wikipedia.org/wiki/エルコンドルパサー 経由で確認)、https://ja.wikipedia.org/wiki/エルコンドルパサー 、閲覧日:2026年8月3日。
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