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牧場帖
一年ずつ、顔ぶれをたどる。引退した名馬たちの繋養・在籍と映像を綴る帳面。武豊の旅
YUTAKA TAKE十七歳で初めて中央競馬の鞍にまたがったその日から、武豊はいつも名馬とともにいた。 最初に巡り合ったスーパークリークがくれた栄光、オグリキャップに沸いたスタンド、ディープインパクトの飛翔、キタサンブラックに響いた『まつり』、そして五十七歳でつかんだメイショウタバルの連覇まで。四十年、彼は名馬に導かれ、名馬を導いてきた。時代が何度移り変わっても第一線で勝ち続ける一人の騎手の旅を、レース映像とともに辿っていく。
第一章 1987–1990 スーパークリーク ― 最初に巡り合った名馬
1969年3月15日、京都に生まれた。父は名騎手であり、のちに調教師となった武邦彦。豊は物心つく前から、馬と人が呼吸を合わせていく現場を見て育った。1987年3月1日、阪神競馬場で初騎乗。デビュー一年目に挙げた69勝は、当時の新人最多勝記録だった。 その才能を世に知らしめたのが、最初に巡り合った名馬スーパークリークである。体質が弱く、春のクラシックには間に合わなかった素質馬。秋の菊花賞も当初は出走できるか危ぶまれたが、若き武豊はこの馬の素質に惚れ込み、ぜひにと手綱を願った。運よく出走枠に滑り込むと、1988年の菊花賞で淀の三〇〇〇メートルを鮮やかに抜け出し、二着に五馬身差をつけて圧勝。人馬ともにGI初制覇だった。十九歳七か月での戴冠は、JRA史上最年少のクラシック制覇でもあった。 コンビはここから、日本競馬の中心へ駆け上がる。1989年の天皇賞・秋ではオグリキャップとの叩き合いをクビ差で制し、1990年の天皇賞・春も勝利。前年の春をイナリワンで勝っていた武豊は、天皇賞を三たび続けて制した。スーパークリーク、イナリワン、オグリキャップ――『平成三強』と呼ばれた三頭すべてに騎乗した騎手は、武豊ただ一人である。 才能は、しばしば本人より先に名を持つ。誰かが彼を『天才』と呼び、その二文字は以後、長い旅をともにする栄光の冠となった。
第二章 1990 オグリキャップ ― アイドルの時代を背負って
平成三強の中で、最も多くの人の心を掴んだのがオグリキャップだった。 地方・笠松でデビューし、十二戦十勝の圧倒的な成績を引っさげて1988年に中央へ移籍。たちまちGI戦線の主役となり、地方出身という出自への判官贔屓と、規格外の強さとがあいまって、空前の競馬ブームの象徴になっていく。 もっとも、その鞍上は一頭の馬とは思えないほど替わった。河内洋、岡部幸雄、南井克巳――名手たちが入れ替わり背にまたがる。そして1990年の安田記念、ついにその手綱が武豊に託された。初コンビは東京のマイルをコースレコードの一分三十二秒四で駆け抜ける完勝で、オグリの通算獲得賞金は、このとき日本の歴代一位に達していた。 だが秋は厳しかった。増沢末夫に手綱が戻った天皇賞・秋は六着、ジャパンカップは十一着。もう全盛は過ぎた――引退レースの有馬記念を前に、そんな声が大勢を占めていた。 第35回有馬記念。武豊がふたたび背に戻ってきた。ファン投票一位、単勝は四番人気。最後の直線でオグリは力強く先頭に立ち、メジロライアンとホワイトストーンの追撃を抑えて先頭でゴールを駆け抜ける。『奇跡の復活』だった。場内を包んだ『オグリコール』は、競馬がブームから文化へ変わる瞬間の音であり、若き武豊は、その歓声の中心にいた。
第三章 1991–1993 メジロマックイーン ― 親子三代の宿願
メジロマックイーンには、生まれる前から託された夢があった。祖父メジロアサマが1970年の天皇賞・秋を、父メジロティターンが1982年の天皇賞・秋を制していた。残るは三代目――『ティターンの仔で天皇賞を』。それは生産牧場メジロの、長年の悲願だった。 1991年の天皇賞・春。その手綱を取ったのは、二十二歳の武豊である。淀の三二〇〇メートルでマックイーンが先頭でゴールを駆け抜けた瞬間、祖父・父・仔と続く史上初の親子三代・天皇賞制覇が成った。武豊が引き出したのは、長丁場をゆったりと支配する王者の品格だった。 翌1992年の天皇賞・春は、無敗の二冠馬トウカイテイオーとの『世紀の対決』。マックイーンは後続を大きく突き放し、テイオーに九馬身もの差をつけて完勝。史上初の天皇賞・春連覇を成し遂げる。武豊は、この相棒から長距離戦の呼吸そのものを学んだ。 順風ばかりではない。1991年の天皇賞・秋では、一位で入線しながら斜行による進路妨害で降着となる経験も味わった。それでも二人は歩みを止めない。1993年の宝塚記念を制してGI四勝目を挙げ、マックイーンは日本競馬で初めて獲得賞金十億円に到達した名馬となる。淀に咲いた長距離の品格は、翌1994年の顕彰馬選出とともに、永く語り継がれていく。
第四章 1993–1997 ベガとエアグルーヴ ― 二頭の名牝と磨いた技
1990年代の武豊を語るとき、二頭の名牝を外すことはできない。ともに名種牡馬トニービンを父に持つ、ベガとエアグルーヴである。 1993年、ベガで桜花賞と優駿牝馬を制し、牝馬二冠。鋭い決め手と折り合いの妙で、一頭の女傑が春のクラシックを彩った。三冠目のエリザベス女王杯ではホクトベガの前に三着に屈し、牝馬三冠こそ成らなかったが、ベガが見せた勝負強さは、武豊の牝馬戦の確かな礎になった。 数年後、同じトニービンが送り出したもう一頭の牝馬が、牡馬の頂をうかがう。エアグルーヴ。1996年の優駿牝馬を武豊で制し、母ダイナカールに続く母娘二代のオークス制覇を果たすと、翌1997年、古馬の牡馬たちへ真っ向から挑む。天皇賞・秋、牝馬として実に十七年ぶりの盾を奪い取り、その年の年度代表馬に輝いた。牝馬の年度代表馬は、二十六年ぶりの快挙だった。 剛でねじ伏せるのではなく、柔らかく引き出す。武豊が磨いた牝馬の御し方は、やがてエアグルーヴの娘アドマイヤグルーヴのエリザベス女王杯連覇へと受け継がれていく。長い騎手生命を支えた技術の礎は、まちがいなくこの時代の名牝たちにあった。
第五章 1998–1999 スペシャルウィーク ― 十一年目のダービー、そして日本総大将
若くして八大競走を勝ち、古馬の王道でも名を挙げた武豊に、ただ一つ遠い大舞台があった。日本ダービーである。どれだけ先にGIを積んでも、府中の二四〇〇だけは簡単に開かなかった。それを開いたのが、1998年のスペシャルウィークだった。デビューから十一年、武豊はついに初めてのダービーを手にする。 だが同じ1998年の秋、忘れがたい別れが訪れる。武豊とともに快勝を重ねた逃げ馬サイレンススズカが、天皇賞・秋の道中で脚を故障し、競走を中止してそのまま帰らぬ馬となった。掴んだばかりの大きな夢と、二度と取り戻せない命と。勝負の世界の歓びと痛みを、武豊はこの一年で深く味わった。 翌1999年、府中はふたたび武豊に微笑む。二冠牝馬ベガの初仔アドマイヤベガを駆って、武豊はダービーを連勝。母から子へと受け継がれた一頭で、史上初のダービー連覇を成し遂げた。最も才に恵まれた男ですら、初めてのダービーには十一年を要した。だからこそ、二年続けて府中を制することの重みを、武豊は誰よりも知っていた。 そして円熟したスペシャルウィークが、1999年の頂点へ駆け上がる。天皇賞を春秋と制し、暮れのジャパンカップでは凱旋門賞馬モンジューら世界の強豪を抑えて優勝。『日本総大将』の名をほしいままにした。
第六章 1994–2001 海を渡る ― 外国馬から、日本馬で世界へ
武豊の世界への扉は、一頭の外国馬が開いた。 1994年、フランス。名伯楽アンドレ・ファーブル厩舎のスキーパラダイスを駆って、武豊はムーラン・ド・ロンシャン賞を制する。日本人騎手による、初めての海外GI制覇だった。鞍さえ確かなら、日本の騎手は世界の一線で通用する――その手応えが、ここから続く旅の起点になった。 次は、日本の馬とともに世界の頂を獲る番だった。1998年、シーキングザパールでフランスのモーリス・ド・ゲスト賞を制覇。今度は日本で生まれ育った馬による、初めての海外GI制覇である。国内の強さをそのまま海外へ持ち出せることを、武豊は現実にしてみせた。 扉が開けば、流れは加速する。1999年にはアグネスワールドでアベイユ・ド・ロンシャン賞、2000年には同馬で英国の伝統あるジュライカップを制し、日本のスプリンターが欧州の短距離王者たちをねじ伏せた。 2001年には、長く善戦に泣いてきたステイゴールドで香港ヴァーズを勝ち、黄金旅程の馬に最後の最後で大輪のタイトルをもたらす。外国馬から始まり、日本馬で世界各地へ。日本の馬が海を渡って勝てることを、武豊は鞍の上から証明し続けた。
第七章 2005–2006 ディープインパクト ― 飛ぶ、という走り
武豊のキャリアの真ん中には、一頭の鹿毛がいる。ディープインパクト。強くて、速くて、かっこいい――どんな距離でも、どんな状況でも勝ち切る馬がいたら。その夢を、そのまま体現して現れた相棒だった。 2004年暮れの新馬戦から、武豊はこの馬のすべてのレースで手綱を取った。新馬を四馬身差、若駒ステークスを五馬身差。皐月賞のあと、彼はその走りをこう言い表す。「走っているというより、飛んでいる」[^1]。ダービーは五馬身差の圧勝。地を蹴る音すら聞こえないような末脚に、府中も京都も総立ちになった。 2005年の菊花賞、単勝はついに一・〇倍をつけた。淀のパドックは異様な熱気に包まれ、入れ込む愛馬を案じた武豊が、詰めかけたファンにどうか静かにと願ったほどだった。レースは二馬身差の完勝。シンボリルドルフ以来二十一年ぶり、史上二頭目の無敗三冠である。十三万人を超える観衆の前で、『世界のホースマンよ見てくれ、これが日本近代競馬の結晶だ』[^2]の名実況が淀に轟いた。 だが、勝って当然とされる馬の鞍上は、孤独でもある。「ディープでゴールするたび、心底ホッとしていた」[^1]と武豊はのちに明かしている。その重圧が、無敗のまま迎えた2005年の有馬記念で形になった。ハーツクライに半馬身、デビューからの連勝が止まる。「飛ぶような走りではなかった。普通に走ってしまった」[^1]。国内で他馬の先着を許したのは、生涯でこの一度きりだった。 翌2006年、貫禄が戻る。阪神大賞典を完勝し、天皇賞・春は京都の三二〇〇を三分十三秒四のレコードで制覇。宝塚記念も危なげなく勝って、五つ目の冠を手にした。そして武豊は、最も焦がれた舞台へ向かう。 2006年10月1日、ロンシャンの凱旋門賞。六千人もの日本人が現地を埋め、ディープは異国で一番人気に推された。いつもの追い込みではなく、二番手追走の積極策。しかし直線で伸びを欠き、三位入線。さらにレース後の検査で、当時の日本では禁止薬物ですらなかった気管支拡張剤が検出され、凱旋門賞史上初の薬物失格が裁定される。レース直後、武豊は『よくわかりません』とだけ残し、青ざめた顔でその場を去った。のちに彼は語っている。「なぜ、勝たせてあげられなかったのか――今でも夢に見るほど、悔しさだけが残っている」[^1]。 それでも、二人は最後に笑う。帰国後のジャパンカップをドリームパスポートに二馬身差で完勝。引退レースの有馬記念は、後方から豪快にまくって三馬身差の圧勝だった。三冠馬がラストランを勝って去るのは、シンザン以来四十一年ぶり。通算十四戦十二勝、国内ではあの有馬の一度を除いてすべて勝ち、全レースの鞍上は武豊だった。 後にJRAが滞空時間を測ると、ディープはむしろ平均より地に足がついていたという。それでも、見る者の目には確かに飛んでいた。2019年、十七歳で世を去ったとき、武豊は会見でこう言った。「本当に特別な馬。僕にとって、ヒーローでした」[^3]。最大で最強、最速の――そして、ともに時代を駆け抜けた最大の友。『天才』という重圧を、最も誇らしいものへ変えてくれた一頭だった。
出典:Number Web(文藝春秋)閲覧日:2026年6月25日。/関西テレビ「菊花賞 杉本清アナウンサー実況」2005年放送。/各スポーツ紙「ディープインパクト急逝 武豊騎手コメント」2019年7月30日配信、閲覧日:2026年6月25日。
第八章 2007–2009 ウオッカ ― 二センチの死闘
武豊が2002年のダービーを勝ったタニノギムレット。その娘が、この時代の女傑となる。ウオッカ――父であるカクテル『ギムレット』より強い酒であれ、と名づけられた牝馬は、2007年に牝馬として六十四年ぶりのダービー馬となり、父娘二代のダービー制覇という史上初の偉業を残した。 武豊がその背で歴史を刻んだのは、2008年の天皇賞・秋である。ウオッカ、ダイワスカーレット、ディープスカイ――重賞勝ち馬がひしめいた一戦はウオッカとダイワスカーレットの一騎打ちとなり、写真判定の末、わずか二センチ差で武豊のウオッカに軍配が上がった。彼が引き出したのは瞬発力ではなく、女傑の矜持そのものだった。 武豊は翌2009年も、ヴィクトリアマイルと安田記念をウオッカで制する。同じ時代、アドマイヤムーンでドバイデューティーフリーを、メイショウサムソンで天皇賞・秋を勝つなど、芝の大舞台で結果を残し続けた。東京の長い直線は、武豊と名牝の呼吸をよく知っていた。
第九章 砂の王たち ― ダート路線と地方への遠征
武豊が砂で見せた凄みの原点に、一頭の『黒船』がいる。クロフネ。2001年、芝のNHKマイルカップを制したこの外国産馬は、矛先をダートへ向けると手がつけられなくなった。武蔵野ステークスをレコードで圧勝し、ジャパンカップダートは二分五秒九のレコード、二着に七馬身差をつける規格外の勝ちっぷり。屈腱炎でその年限りに退いたが、ダート史にいまも名を刻む。 その砂の系譜を、武豊は次の時代へと引き継いでいく。カネヒキリ、ヴァーミリアン、タイムパラドックス、スマートファルコン。彼はダートの王たちを連れて、大井、川崎、盛岡へと遠征を重ねた。帝王賞、JBCクラシック、東京大賞典――砂のビッグタイトルを、武豊は次々と攻略していく。とりわけスマートファルコンとは砂のGI・JpnI路線を席巻し、東京大賞典を連覇した。 芝でも砂でも一流であること。それもまた、この騎手の異様な厚みだった。地方競馬のファンにとって、武豊が遠征して勝つことは、それ自体が一つの祭りだった。
第十章 2010–2016 キズナ ― 長い冬を越えて
天才と呼ばれた男にも、長い冬は訪れる。 2010年3月二十七日、毎日杯で騎乗馬ザタイキが前のめりに転倒した。投げ出された武豊は、左の鎖骨と腰椎を折る重傷を負い、復帰までに百二十七日を要する。問題は、怪我そのものより、その後だった。長く競馬界の中心で輝き続けた歯車が、静かに狂い始める。年間勝利数は2011年にデビュー以来最低の六十四勝、翌2012年には五十六勝まで沈んだ。三年続けて二百勝を超えたこともある騎手の数字とは、とても思えない。のちに彼は、この頃の競馬は楽しくなかったと率直に振り返っている。栄光を知る者ほど、勝てない時間は重い。 その長い冬を割ったのは、一頭のダービー馬だった。キズナ。父は、かつて武豊が頂点へ導いたディープインパクト。東日本大震災のあとに広まった言葉から『絆』と名づけられた馬である。2013年の日本ダービー、後方十四番手から直線で大外へ持ち出すと、残り二〇〇メートルから鮮やかに伸び、エピファネイアを半馬身差で差し切った。武豊にとって八年ぶり、歴代最多となる五度目のダービー制覇。ウイナーズサークルで、彼は短く、しかし万感を込めて言った。「ぼくは、帰ってきました」[^1]。 その秋、キズナはフランスへ渡る。前哨戦のニエル賞で英国ダービー馬を競り落とし、満を持して臨んだ凱旋門賞は四着。父ディープインパクトもまた、勝てなかった舞台だった。父で挑み、子で挑み、それでも届かない――凱旋門という名の宿題は、いっそう濃く武豊の中に残る。 冬を照らしたのは、キズナだけではなかった。同じ2013年の秋、武豊はトーセンラーでマイルチャンピオンシップを制している。ディープインパクトの初年度に生まれた産駒で、武豊がディープに最も近いフットワークと評した馬だった。自らが世界一の高みへと運んだ父の血が、その引退後の長い冬に、いくつもの勝利となって武豊のもとへ還ってきたのだ。 そしてもう一頭、ディープの子が、武豊に特別な意味を持つ勝利を運ぶ。エイシンヒカリ。国内では気性の難しさに泣くこともあったが、海を渡ると一変した。2015年の香港カップをレコードで逃げ切ると、2016年にはフランスのイスパーン賞を、二着に八馬身という大差で圧勝する。父ディープインパクトが、あれほど焦がれながらついに勝てなかったフランスのGI――その舞台に、子と武豊が大輪を咲かせた。トーセンラー、キズナ、エイシンヒカリ。頂点へ運んだ父の血に背を押されるように、楽しくなかったはずの競馬は、いつしか、またおもしろくなっていた。 そのキズナは、のちに種牡馬として大輪を咲かせる。2024年から二年続けてリーディングサイアーに輝き、サンデーサイレンス、ディープインパクト、そしてキズナ――父子三代での首位は、日本競馬史上初だった。武豊を長い冬から救い出した一頭は、こんどは血の頂点で、父と祖父に並んでみせた。
出典:各スポーツ紙「日本ダービー制覇後 武豊騎手インタビュー」2013年配信、閲覧日:2026年6月25日。
第十一章 2016–2017 キタサンブラック ― 『まつり』とともに
再生の総仕上げは、一頭の黒い馬と、一人の歌い手によって完成する。 馬主は、演歌の大スター北島三郎。長く競馬に夢を注ぎながら、大舞台にはなかなか手が届かずにいた。その北島が、三百五十万円という安値で迎えた馬の父は、ブラックタイド――武豊が頂点へ導いたディープインパクトの、一歳上の全兄だった。弟が一時代を築いた血が、兄を通して、いま武豊のもとへ巡ってくる。キタサンブラックである。 2016年の天皇賞・春から、コンビは王道を席巻した。ジャパンカップ、大阪杯、天皇賞の春秋――とりわけ2017年の天皇賞・秋は劇的だった。出遅れて後方に置かれた逃げ馬を、武豊は土砂降りの不良馬場で最内からするすると進出させ、最後は押し切ってみせる。武豊との六つのGIに前年の菊花賞を加えれば、生涯七勝。当時の史上最多タイに並び、キタサンブラックは二年続けて年度代表馬に選ばれた。 そして2017年の有馬記念。引退レースを、キタサンブラックは先頭で駆け抜けた。レースのあと、北島三郎は中山競馬場で『まつり』を歌う。勝っても負けても歌うと宣言しての、有言実行だった。愛馬に捧げる新曲『ありがとうキタサンブラック』も、その日はじめて披露された。長い冬を越えてきた武豊にとって、満員のスタンドに響くその歌声は、競馬がくれる幸福のかたち、そのものだった。 安く買われた兄の血は、やがて世界へ届く。キタサンブラックの子イクイノックスは、世界ランキングの頂点に立つ怪物となった。弟ディープインパクトと、兄ブラックタイド――枝分かれした二つの血の、それぞれの頂きに、武豊はかつて鞍上にいたのだ。
終章 2021→2026 ドウデュース、そしてメイショウタバル ― 旅は続く
天才は、年齢の記録すら塗り替えていく。 ドウデュースとの旅は、2021年の朝日杯フューチュリティステークスから始まった。二歳王者となったその相棒で、武豊は翌2022年、日本ダービーを制覇する。二分二十一秒九のダービーレコード。五十三歳での戴冠は史上最年長、六度目は史上最多――しかも二十代・三十代・四十代・五十代と、四つの年代でダービーを勝った騎手は、ほかにいない。秋の凱旋門賞では十九着に沈み、世界の壁は最後まで彼を拒んだ。 だが、ドウデュースとの物語は、そこからがいっそう厚い。2023年の秋、武豊はレース当日に別の馬で負傷し、天皇賞・秋とジャパンカップの手綱を戸崎圭太に託さざるを得なくなる。それでも暮れの有馬記念、戻ってきた武豊とドウデュースは、持ち前の豪脚で復活の勝利を掴んだ。キタサンブラック以来六年ぶりの、グランプリ制覇だった。翌2024年も天皇賞・秋とジャパンカップを制し、世代を越えてなお衰えない技を見せつけて、二〇二四年限りでターフを去った。 そして2026年6月。武豊は一週のうちに二つのGIを勝った。まず安田記念をシックスペンスで。五十七歳での勝利は、JRA最年長GI制覇記録を塗り替えた。その一週間後、宝塚記念をメイショウタバルで連覇する。宝塚記念は六勝目、同一コンビの連覇は史上初、父ゴールドシップとの父子連覇もまた史上初だった。 メイショウタバルには、もう一つの物語が重なる。前年2025年の宝塚記念――この馬がGIを初めて勝った日は、馬主・松本好雄にとって生涯最後のGI制覇となった。松本はその夏に世を去り、連覇は亡きオーナーへ捧げる一勝になった。歓声と静けさが、ここでも同じ場所にある。 勝たせた二頭の血をたどると、めぐり合わせに息を呑む。シックスペンスの父はキズナ、その父はディープインパクト。武豊が大舞台で勝たせた三代が、安田記念で一本につながっていた。メイショウタバルの父ゴールドシップには、かつて彼が香港で勝たせたステイゴールドと、長距離をともに駆けたメジロマックイーンの血が流れている。 若き日に時代を駆けた名が、四十年を経て別の馬のかたちで戻ってくる。墜ちても、また鞍に戻る。戻れば、また新しい馬と出会う。「天才」と呼ばれ続けた少年の旅は、いまも次の映像の先へと続いている。
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